毎年5月5日には、飯坂温泉鯖湖神社の例大祭がある。
昨年2015年に、伊達から歩いて出かけてみた。
当初は時系列に綴っていたブログだけれど、更新に時間がかかって季節感がずれたり、気まぐれで1年ぐらい放ったらかしにするなどして、なかなか現在には追いつけない…。
過去を自在に行き来して、読みにくい点もあるかとは存じますが、どうかご容赦ください。
国道399号線の一本道を西へ行くと、湯野、飯坂の温泉街に通じている。
地図を見ると、国道の左手、南側は摺上川へ向かって土地が低く、北側は半田連山に向けて、緩やかに勾配が上って行くのがわかるだろう。
東湯野で田植えが始まった…。
今宵はカエルの大合唱が聴こえるはずだ。
西根堰の開削に尽力した佐藤新右衛門と古河善兵衛が祀られる、西根神社(「伊達〜飯坂温泉」地図B)。
正月には、毎年初詣に来ている。
【第四十五回】初詣 西根神社と中野不動尊、そして三日とろろ
http://onotoshiaki.blogspot.jp/2014/08/blog-post_15.html
温泉街に入った。
飯坂と湯野を結ぶ十綱橋(「伊達〜飯坂温泉」地図C)の上より。
摺上川(下流方向)は伊達市で阿武隈川と合流する。
塔のような建物は、川から流水を用水路に取り入れるための施設「西根下堰頭首工」。
川を堰き止めて水嵩を上げ、左側にある取水口から用水路へ水を流す。
上流方向は、渓谷に温泉宿が建ち並ぶ。
12時38分、福島交通飯坂電車の飯坂温泉駅に着いた。
福島交通|飯坂電車
http://www.fukushima-koutu.co.jp/train/
駅前に建つ松尾芭蕉像。
飯坂温泉の歴史|飯坂温泉オフィシャルサイト
http://www.iizaka.com/details/details03/
飯坂温泉駅から鯖湖神社(「伊達〜飯坂温泉」地図D)へ歩いた。
振り向いて、今来た飯坂温泉駅方向。
緩やかな上り坂を歩く。
お昼時ということもあり、途中の店が行列を作っていた。
麺飯酒家 万来
http://tabelog.com/fukushima/A0701/A070101/7001101/
12時45分、鯖湖神社前では神輿が待機していた。
鯖湖神社の境内には「飯坂温泉発祥の地」碑、俳人・正岡子規らが飯坂を詠んだ句碑が建てられている。
鯖湖神社|飯坂温泉オフィシャルサイト
http://www.iizaka.com/join/join07/shiseki09/
鯖湖神社の背後に建つ鯖湖湯の周囲も、祭り客で賑やかだった。
鯖湖湯は元禄2年(1689年)、奥の細道の途中、飯坂に立ち寄った松尾芭蕉が湯に浸かったと伝わる名湯。
明治を偲ぶ共同浴場(明治22年)として、松山市道後温泉坊ちゃんの湯(明治27年)の建築より古く、日本最古の木造建築共同浴場である。
飯坂温泉のシンボルとして、地元住民や観光客に親しまれてきた。
鯖湖湯|福島市観光開発株式会社
http://www.fckk.co.jp/?p=130
12時50分、鯖湖湯前にある「温カフェ」(「伊達〜飯坂温泉」地図E)で昼餉を取ることにした。
温カフェ
https://www.facebook.com/iizaka.oncafe
10分ほど待った後、窓際の席に着く。
喉が渇いた…。
「まかないランチ」は焼肉ライスにカレー、オムレツ、サラダ、スープが付いていた。
ケーキと泡付きのコーヒーで和む…。
食後、周囲を彼方此方散策。
温カフェの隣にある旧堀切邸(「伊達〜飯坂温泉」地図F)の中でも、イベントが行われていた。
旧堀切邸|福島市観光開発株式会社
http://www.fckk.co.jp/kyu-horikiritei/
無料で足湯にも浸かれる旧堀切邸については、【第三十二回】に記してある。
【第三十二回】裏磐梯から喜多方日中線跡 米沢そして飯坂旧堀切邸
http://onotoshiaki.blogspot.jp/2013/11/blog-post_5112.html
路地を抜けて「餃子照井」本店前に出た。
飯坂温泉街では、円盤餃子や飯坂ラーメンを売り出しており、中には隠れた名店もある。
福島駅東口の駅ビルの並びに支店がある「餃子照井」は準備中であった…。
餃子照井
http://www.gyouza-terui.com
鯖湖神社前に戻ったら、神輿がどこかへ移ってしまった。
飯坂温泉駅へ向かったと聞き、後を追った。
再び十綱橋。
駅前(「伊達〜飯坂温泉」地図G)では、神輿が待機中。
飯坂線のホームの屋根越しに、遠く吾妻と安達太良の両連峰が横たわる…。
14時10分、神輿の渡御が再開。
神輿は摺上川沿いの緩やかな登り坂を、波来湯(はこゆ)の方へ向かって進んだ。
波来湯(「伊達〜飯坂温泉」地図H)は延暦年間の開湯と伝わる、1200年余りの歴史ある湯である。
男女ともに、源泉掛け流しの熱い湯と適温に調整された温い湯の2つの湯船がある。
波来湯|福島市観光開発株式会社
http://www.fckk.co.jp/?p=115
左端に見えるのが波来湯。
一団は威勢良く温泉街を巡って行った…。
ここで神輿と別れ、新十綱橋(「伊達〜飯坂温泉」地図I)の方へ出た。
西根上堰を見たかったのだ。
これまでも阿武隈川より西、摺上川より北で、半田連山の裾野に囲まれた西根郷(西から福島市湯野、伊達市旧伊達町の一部、伊達郡桑折町、国見町、伊達市旧梁川町の一部)を潤す西根上下堰については触れてきた。
【第七十回】伊達へ。西根堰と常称寺と西山城跡、山吹の里
http://onotoshiaki.blogspot.jp/2016/04/blog-post_17.html
今でこそ水田や桃畑等、実りの多い当地ではあるが、西根堰開削以前は多くは乾いた大地であった。
古くから水路開削の必要性は考えられていたようだけど、整備には至らず…。
西根堰の歴史(その1)(その2)
http://sky.geocities.jp/nishine005/isan-nishine/nishine-rekishi01.pdf
http://sky.geocities.jp/nishine005/isan-nishine/nishine-rekishi02.pdf
慶長三年、越後の上杉景勝は、秀吉の命により会津の蒲生氏行の封を継ぎ会津百二十万石に封ぜられ、信達地方もその支配下に属した。
然るに同年八月、秀吉は六十三才をもって世を去った。
これを契機として日本全土に戦雲みなぎった。景勝は石田三成と呼応し、徳川家康の背後をつくべく、領内の諸城の修築をなし、さらに神指城(会津若松市)の築城を計り、また道路、橋梁等を修理、武器浪人者を集め、着々として戦備を整えた。
このことが徳川家康の会津討伐の端緒となり、間接的には、慶長五年(一六〇〇年)いわゆる天下分け目の関ヶ原合戦の誘因となった。
一方奥羽の伊達政宗は秀吉に奪われた旧領、伊達、信夫の失地回復をめざして徳川家康と結び、上杉の背後をつく。先ず白石城を攻めとり、福島城にせまった。
ここに史上に名高い松川合戦(福島市瀬上附近)があって、両軍、しのぎをけずった。ところで西根堰の下堰工事担当者である桑折の佐藤新右衛門家忠は、上杉家臣としてこの合戦で目覚ましい働きをして、抜群の武功を樹てたという。 慶長六年三月上杉景勝軍門に降る。
家康、戦後処理として、西軍に味方した諸大名の処分を徹底的に行なう。
慶長六年八月上杉景勝、家康の下知として奥州会津仙道など高百二十万石を削封せられ、羽州置賜地方(米沢)十八万石及び、奥州、伊達、信夫地方、十二万石、計三十万石に減封された。
(一部引用)
そうして、石高の大幅減による新田開発の必要に迫られた上杉景勝は、西根郷に水を引くため、元和4年(1618年)に水路の開削工事に着手し、同年暮に延長14km余の「西根下堰」を完成させた。
その後、寛永元年(1624年)には上杉定勝が工事に着手し、寛永2年3月に延長29.2kmの「西根上堰」を完成させたのである。
つまり、①豊臣秀吉によって伊達政宗が岩出山へ移封、②後に入った蒲生氏の封を継いだ上杉景勝(蒲生秀行が家内不穏の動きから宇都宮に移封し、伊達氏の動きを牽制するために上杉氏が配置された)、③秀吉の死、④関ヶ原合戦、⑤上杉氏は西軍に与したとして徳川家康により120万石から30万石への減封処分、が西根堰の開削工事の背景にあり、天下分け目の合戦が当地に肥沃な大地をもたらした偶然の経緯が興味深い。
ここは岩盤から垂れ下がる木の根が鼻毛に見えるからか、「鼻毛の隧道」と呼ばれている。
西根上堰の吸水口は、まだこの先にある。
左下が摺上川。
水を水路へ流すには、まだ上堰との高度差がある。
新緑が眩しい摺上川。
14時35分、歩いて帰る体力を残し、そろそろ撤収することにした。
阿部留商店で元祖ラジウム玉子を調達。
阿部留商店
http://tabelog.com/fukushima/A0701/A070101/7006710/
伊達から飯坂は、片道徒歩約45分。
葛飾の住処から、水元公園へ行ったぐらいの距離感覚か…。
撮り歩きにはちょうど良いかも知れない。
端午の節句は、ちらし寿司。^^
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